江端さんのひとりごと             「言えない一言」  大学在学中の冬休み、名古屋の実家に帰省した時のことです。  名古屋市緑区にある、有松絞りで有名な「有松駅」の前にある書店で、私が SFの文庫本を立ち読みしていたところ、同じくらいの年齢の男性に声をかけ られました。 男性:「おう!久しぶりだなあ!! 元気だったか!?」 江端:「お、・・・おう。君もなかなか、・・・だねえ。」  この情況だけを読んでいただいてお分かりになると思いますが、私はこの男 性が誰であるか、全く思い出せていません。  『名前を思い出せない』と言う情況は、皆さんも体験されたことがあるとは 思います。  しかし、私は目の前ににこやかな笑顔で立っている男性に、全然見覚えがな かったのです。 男性:「どうだ、調子は! ばっちりか!?」 江端:「はは・・。ま、まあな。なんとかぼちぼち・・・。」  どうやら私はこの男性に、色々近況を連絡している極めて『懇意』の間柄の ようです。  私は(いろいろ言われていますが)根がとても優しい、シャイでナイーブで 線の細い美男子ですので、偶然の出会いを喜ぶ彼に対して『すみませんが・・ どちら様でしたでしょうか・・・』などと言って、彼の顔を寂しげな笑顔にす ることなど、とてもできなかったのです。  不意の出会いに喜んでいた彼は、突然思い出したように、私に質問を投げか けて来ました。 男性:「おう、最近あっちの方はどうなんだ?最近聞かないけど・・」  (どっちの方なんだ〜〜!)と私は、泣きそうな思いで心細くなりながらも 、笑顔を崩さずに彼に力強く応えていました。 江端:「おう!あっちか?あっちは、勿論大丈夫だとも!!」    情報量0。  それでもここまで誤魔化せる技量こそが、演劇部出身者の強みと言えましょ う。 ---------  こういう情報量のない応酬を1分ほど続けたでしょうか。  その間も、私の脳は過去のデータベースを考えうる最高のスピードで検索を 続けていました。  彼が突然、怪訝そうに首をかしげて、私の顔を下から上へゆっくりと舐める ように眺め出しました。 男性:「んーーーー・・・・・・。」 江端:「?」  (しまった、こいつのことを思い出していないことに気がつかれてしまった かぁ!)と、私の顔は笑顔か張り付いて凍った状態になってしまいました。 男性:「あっ!」  彼は声にならない小さな叫び声を発すると同時に、一瞬のうちに驚いたよう に私から半歩下がります。 江端:「・・な、なんだい?」  あせりながらも笑顔を忘れない江端。 男性:「ごっ・・ご・・」  二人の間に、冷気が通過したような一瞬の間の後。 男性:「ごめん! 間違えた!! 人違いだった。ごめん、ごめん!!」  と言うが早いか、彼はくるっと後ろを向くと、そそくさと本屋の出入口から 、去っていきました。  それはあたかも、一瞬の風のような消え方だったと記憶しています。 ---------  私が唖然として消えていく彼の軌跡を目で追いました。  そして、力なく立ちすくんで呆然とした表情のまま立ちすくんでいるだけで した。  本屋をぐるりと見渡すと、誰もが自分の本を一生懸命読んでいるようにも見 えましたが、真剣な顔のままで、笑いを堪えているようにも見えます。  (残された私の立場は・・・人間違いと楽しげに談笑していた私の立場は・ ・・どうなるんだぁぁぁ・・・・。)  ぶらりと下がった、私の両手。  その左手に小松左京の「復活の日」をかろうじて持ちながら、マイナス50 度の極寒の南極に置き去りにされたような気持ちから立ち直れない、自失呆然 の江端さんでした。 (この「江端さんのひとりごと」は、コピーフリーです。全文を掲載し、内容 を一切変更せず、著者を明記する限りにおいて、自由に転載していただいて構 いません。)