戒厳令の夜

江端さんのひとりごと

「戒厳令の夜」

2002/10/16

昨日、飯田橋近くの会社の出張して、その帰りに神田によって、スキーの靴を買ってきました。

コロラド最後のスキーで、自分の肋骨と一緒に、愛用のシューズのシェルも壊れてしまいました。

その時、『コロラドが私に別れを告げている・・・』と思えた私は、かなり幸せな人間なのでしょう。

それはさておき。

これで4足目になるシューズ(一度だけ購入、一足は貰い、もう一足はリサイクルショップで拾った)を、"Salomon SB9"にしました。

そのシューズは、ブレードスキー(長さ1メートル位のミニスキー)専用のシューズで、普通のスキー板には使えないものです。

コロラドで、ブレードスキーにドップリ嵌ってしまって、『もはや、通常のスキー板には戻らないぞ』という、私の固い決意も入っております。

昨年、デンバーで一番大きいスキーショップで、2種類しかなかったブレードスキーが、神田の「ヒマラヤ」では、壁一杯に陳列されてビックリしました。

唖然として、店員さんに尋ねたところ、2年前位からブレードスキーは日本で大ブレイクして、今では、スノーボードと並んで、一つのスキー分野となっているとのことでした。

バックカントリースキーの本場、アラパホベイスンのパリバチーニボウルでブレードスキーの技術を鍛え、この新しいコンセプトであるブレードスキーを携えて、晴れやかに帰国後スキーデビューを果そうと考えていたのですが、全く無意味だったようです。

昨年は、ゲレンデで「後ろ向きビデオ撮影」という高等技術も取得したのですが、コロラド最後スキーの日、上級コースで後ろ向きに滑走しながら、嫁さんを撮影している途中に派手に転倒し、カメラを守った代わりに、肋骨を4本持っていかれました。

記録され続けていたビデオテープには、白いゲレンデと真っ青な青空が、画面一杯に広がっており、その後では、嫁さんがコロコロと笑う声もしっかりと録音されておりました。

実家に送るビデオレター編集の段階では、カットされていましたが。

その後、負傷を隠しながら、帰国の準備に取りかからねばならなかったのですが、同僚の引越しの手伝いの際、背骨が軋むほど重いソファーの運搬で、事態を悪化させることになります。

さらに自分の家の引越作業で、肋骨は悪化、帰国したらしたで、花粉の飛び回る日本が、私を大歓迎。

クシャミをする度に、脳天から爪先まで走る激痛で、時差ボケ以前の問題でした。

花粉のない国に帰りたいと、スーツケース4つをキャリーに乗せて、娘の手を引きながら、成田空港でデンバー行きの格安チケットを探していたのは私です。

閑話休題。

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1990年代、日本中がバブル景気で踊り狂い、地価や株価の高騰の背景で、その象徴的なトレンドとなって表われたのが、実は「スキー」でした。

いや、もう、ホントに滅茶苦茶。

毎週金曜日になると、サラリーマンやOL、所帯持も含めて、長さ170cm以上のスキー板を担ぎ、スキーバッグをズルズルと引き擦りながら、池袋や新宿のバスターミナルに結集。

氷点下、雪の降りしきるバスターミナルに、スキー板を担いで列をなす人々の群れと、バスツアー客相手の蕎麦の出店、そしてハロゲンランプに照らされた200台近くのバスが集結している様は、

----- 歩兵用ライフルを携えながら、湯気が立つだけの薄いスープを啜りつつ、輸送兵トラックに乗り込むのをただ無感動に待ち、これから板門店の非武装地帯を強行突破して韓国の首都ソウルを目指す、北緯38度線近くに結集した北朝鮮の陸戦部隊 -----

壮観の一言に尽きました。

まさに、「戒厳令の夜」といって良いほどの、不気味さでした。

東北、関越自動車道路は、深夜午前2時の段階で10kmを越える渋滞が発生し、スキー場を目指す若者達の自動車の列は、海を目指して集団自決に走るレミングの群れもかくあろうかというような光景でした。

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そして、当時の若者達はと言えば -----

「スキー合宿」と呼ぶ名ばかりのイベントで、なんとか王子ホテル(「プリンスホテル」と言いたいらしい)とか称する、リゾートホテルで、アフタースキーなどと称し、スキーとは無関係の娯楽に興じ、アルコールを暴飲し、若さに走りまくり、節度を著しく逸脱した若い男女達の狂宴が続く -----

そんな最中、私も「スキー合宿」をしていました。

一人で。

西武グループの買収から外れたのだろうと思われる、スキー場の裏側にある、釣客専用のうらぶれた民宿の6畳一間の民宿の一室での、たった一人の「スキー合宿」。

3泊4日の間、口をきいた回数は数回、単語は、朝の食事で「頂きます」、夜の食事で「御馳走さまでした」、後は、チェックインとチェックアウト、そしてリフト券を買う時だけという、総単語数にして20以下という寡黙な合宿。

朝8時から、リフトが動かなくなる夕方4時半まで、黙々とスキーの練習を続け、夜夕食を食した後は、畳の部屋で布団の上に座り、蛍光灯の下、ストーブの石油が燃える匂いの中で、「吉川英治」を読む。

そして気が向いた時には、食堂に出向き、民宿のおばちゃんに「お銚子、2本。熱澗で。部屋にお願いします」とだけ頼み、つまみもなく、窓の外の雪を見ながら、ただ「宮本武蔵」と酒を飲む。

本を読むのに、少し疲れたら、誰もいない浴場で一風呂浴び、夜の11時になったら、部屋の電気を消し、時折、窓ガラスを叩く雪まじりの風を聞きながら、一人静かに寝入る。

楽しかった、実に。

私の青春の一ページを飾る、思い出深いスキー合宿でした。

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しかし未にこの話をすると、嫁さんを含めて、皆、宇宙人を見るような目で私を見ます。

『一体何を考えて、この人は生きているんだろう』とその顔が語っているし、「江端さんは、やっぱり違いますね」と感嘆したように頷く者もいます。

何故 ?

スキーは、スキーそのものだけでも十分面白いと思うし、こういう「スキー合宿」も確かに楽しいものです。

心静かに興じるスキーというのも、捨てたものではありません。 (本文章は、全文を掲載し内容を一切変更せず著者を明記する限りにおいて、 転載して頂いて構いません。)