原発、自動車、旅客機…人を殺すことを前提にした安全【前編】

「止められないからNG」(裁判所)だった原発は、なぜつくられた?


 こんにちは、江端智一です。

 前回記事では、福島第一原発事故の、原子炉建屋爆発までの経緯について説明させていただきましたが、その調査を行っている最中に、「いったん暴走してしまった原発は、原則として止める手段がないのに、なぜ我が国は、そんな危ないモノの建造を認めているのだろう?」と不思議になってきました。

 例えば、原発から民家までの最短距離は700m【註1】だそうですが「そりゃ、桁が2つ違うだろう」と、思わず突っ込んでしまいました。

 また、電車が脱線すれば多くの人が大怪我をするし、墜落すればほぼ全員が死亡するような旅客機が、なぜ空を飛ぶことを許されているのだろうかと。

 皆さんが「安全」から想起するイメージは、恐らく、「危険がなく心が安らかな状態」であると思います。ところが、今回調べてみて驚いたのですが、「工学的アプローチから規定される安全」と「心が安らかな状態の安全」の間では、天と地ほどの差があるのです。それどころか、「工学的アプローチから規定される安全」とは、我々の寿命から逆算されて導かれているようなのです。

 本日は、「安全」について、書かせていただきたいと思います。

●原子炉への特許権を拒絶していた特許庁

 原発が現実に危険であることは、もはや論じるまでもありません。

 そもそも、特許庁が原子炉の発明に対して特許権の付与を拒絶していますし、裁判所もその判断を支持しています【註2】。

 これが、「原子力エネルギー発生装置事件」です。「原子炉特許第1号」という名の著名な発明で、発明者はあの「キュリー夫人」の長女ほか2名です

判決の理由は、以下のとおり明快です。

 ・本発明の原子炉は、エネルギーを取り出せるけど、安全に停止させることができないじゃないか?
 ・こんな不完全で危ない発明に、特許を与えられる?
 ・我が国では、安全に止めることのできない発明は、「産業上利用できない発明」とされている。

 つまり、「原子炉の発明」は、我が国の特許法に基づき、行政と司法当局により特許発明とすることを拒絶され、未完成発明と認定されているのです。

 福島第一原発の原子炉建屋は、厚さ2メートルものコンクリートの頑丈な箱でしたが、単なる化学反応に過ぎない水素爆発程度で、粉々に吹き飛ばされてしまいました。もし、ミサイルが一発でも撃ち込まれれば、建屋はもちろん、格納容器、そして原子炉本体までも軽々と破壊できることは、議論の余地はないでしょう【註3】。かかるミサイル攻撃に対して、日本国内に54基ある原子炉のすべてを、イージス艦を含む現存する日本の防衛力で防ぐこと、つまりミサイルを着弾前に撃ち落とすことなどは無理だろうと思います。

「原子炉を襲うなんて、そんな無法なことをする国はない」という常識は、戦争時には通用しません。現実に、イラク原子炉爆撃事件(バビロン作戦)【註4】のように、戦闘機の編隊によって、原子炉がピンポイント爆撃された事件があります。ーーと、本来「安全」は、戦争やテロも含めて議論されるべきですが、今回は「工学的アプローチから規定される安全」に限定させていただきます。国防論にまで話が及んでは、話が終わらないからです。

 さて、あらためて、今回の問いを確認します。

 なぜ、原子炉は建造を許されるのか?
 旅客機はなぜ飛ぶことを許されているのか?
 電車はなぜ旅客機運行でき、自動車は走ることができるのか?

 ひとたび事故が起きれば、旅客機は約500人の人間を、電車も100人オーダで、一気に大量の人間を殺します。今でも、年間5000人が交通事故で死亡しています。これは、2時間弱で1人、1日で約14人が、交通事故で殺されていることになります。「原発を全面的に廃止すべきだ」という主張はよく聞きますが、「自動車をすべて廃止すべきだ」というスローガンは、まだ聞いたことがありません。

 広島、長崎の原爆は、30万人を超える人間を殺害しましたが【註5】、原発事故との間で因果関係が自明となっている死亡事故というのは、極めて少ないです【註6】。

 そして、我々は、原発、旅客機、電車、自動車に、同じ言葉「安全」を使っていますが、どうも、その意味は全部異なるように思われます。加えて、「工学的アプローチから規定される安全」は、これらとは異なる、さらにもう一段階、次元の異なるものとなっているのです。

●単に事故が起きない状態にすればよい?

「心が安らかな状態の安全」を「絶対的」な意味で実現する方法は、とっても簡単です。原発を「全部止める」。旅客機、電車、自動車に至っては「絶対に使わない」。これで十分です。単に事故が起きない状態にすればよいのです。

 しかし、これらはいくらなんでも極論です。「原発を止める」のほうは代替エネルギーと併せて検討する余地がありますが、公共の輸送サービスの享受が受けられない社会では、とても文化的な生活が送れるとは思えません。また、これらのサービスをすべて拒否する人、というのも想定しにくいです。

 では、「絶対的」と言わないまでも、「準絶対的」な実現方法についてはどうでしょうか?

 第1の手段は、「すぐ止めてしまう」です。極端なことを言えば、台風が「南シナ海」で発生した時点で、 すべての電車を止めてしまえば 事故は発生しようがありません。また、雨が降れば無条件に高速道路を封鎖してしまえば、スリップ事故を発生させようがありません。

 第2の手段は、「徹底的な安全対策」です。例えば、電車の座席を全指定とし、ジェットコースターのような安全器具装着に加えて、エアバッグ搭載。電車の出発確認に10分を費やし、時速10km以下で移動。閉塞区間(2つの列車が同時に入れない区間)の距離を現状の10倍にすれば十分でしょう。

 しかし、これらの手段も現実には採用できません。輸送能力が担保できず、不便で、経済活動を著しく阻害します。また、コストも滅茶苦茶に高くなるでしょう。隣駅までの切符代が1000円になり、1カ月の電気料金が20万円になり、実家に帰省するための飛行機のチケット代が100万円になる、という事態になるかもしれません。

「心が安らかな状態の安全」を、「絶対的」または「準絶対的」に実現することは大変難しいのです。そのような「安全」の概念を、現実社会に適用したら、ありとあらゆる公共サービスは、全部成立しなくなるからです。

●工学的アプローチから規定される安全

 そこで登場するのが、「工学的アプローチから規定される安全」の考え方です。

 この考え方には、色々あるのですが、今回は2つの考え方、ALARA(アララ)とSIL(シル)についてご紹介したいと思います。

 簡単に言うと、両者とも「安全」に対して公共性や経済性の考え方を導入したものであり、極論すれば「人を殺すことを前提とした安全」という概念であると言って良いかと思います。

「人を殺すことを前提とした安全」とは、形容矛盾であり、とんでもない非人道的な考え方と思われるかもしれません。しかし、この考え方こそが、現在の原発、飛行機、電車、自動車、その他の、すべての公共サービスの制御システムの品質を規定する根幹の考え方なのです。

 では、まずALARAからご説明致します。

 ALARAの原則とは、「AS Low As Reasonable Achievable」の略で、「合理的に可能な限り低く」の意味で、特に原発関係では「被ばく量の低減」の意味で使われることが多いです。

 問題は、この「Reasonable=合理的」の解釈です。それには、諸説あるようですが、概ね3つの要素で形成されているように思います。

 1つ目は、危険度(リスク)。

 これは危険の発生する確率と言ってもよいかもしれません。「3日に1度死亡事故を起こす電車」は論外としても、「100年に1度」と言われた場合はどうでしょうか? これについては、SILのところで詳解します。

 2つ目は、費用対効果(コスト)。

 先ほど説明した「南シナ海で台風が発生した時点で電車を止める」では、鉄道会社が業務を実施する意義が見いだせず、鉄道サービスそのものが成立しません(=公共性の問題)。また、隣駅まで1000円かかれば、誰も電車を使わなくなるでしょう(=経済性の問題)。

 3つ目は、倫理(モラル)。

「放射性物質はバラまかれたけど、現時点で誰も死んでないじゃんか」→「だから原発は安全なんだよ」という理屈が成立しないのは言うまでもありません。現時点でリスクを計算ができないものを「安全サイド」に倒すというのは、まさにモラルに反しています。「わからない」なら、「危険サイド」に倒しておく、という考え方こそがモラルにかなっていると言えます。

 簡単にまとめますと、

 ・合理的=リスク+コスト+モラル

と記述できると思います。

 ところが、この「合理的」の解釈が、これまた、とても難しい。

●「合理的」とは何か?

 例えば、

 「原発を抱える電力会社は、赤字になっても安全性対策には無尽蔵のコストを費やすべきだ」

という考え方を、「合理的」と考えることもできます。一方、

 「安いサービスを実現するためには、安全基準を緩めてもコストダウンを図るべきだ」

を「合理的」と考えることもできます。あるいは、

 「人が死ぬような事故を絶対に阻止する代わりに、死に至らない事故(重傷を含む)については看過する」

という考え方もあり得ます。

 これを、もっと開けっぴろげに表現してみれば、

 「死亡者1人 = 重傷者100人として計算しましょう」

を「合理的」と言ってもよいということです。また、「合理的」は、対象によっても変わってくるから、さらに面倒くさいのです。

 これまで考察したように、「福島原発は、直接の被ばく事故による死者を出していない。だから原発は安全だ」と言われたら 皆、絶対に怒るでしょう。

 原発が、鉄道や旅客機と決定的に違うことは、「人が戻れない地域を生み出してしまうこと」「人が食べられない食物を生み出してしまうこと」そして、それが「いつまで続くかわからないこと」などがあります。決定的に面倒なのは、これらの「合理的」の中の「リスク」が、客観的な数値として把握できないことにあります。

 私には、危険を主張する人と安全を主張する人の見解の相違が、軽く100万倍を超えているように見えます。
(文=江端智一

※後編へ続く

【註1】http://ja.wikipedia.org/wiki/浜岡原子力発電所
【註2】別冊ジュリスト 特許判例百選(第3版)『危険の防止と発明の完成 ―原子力エネルギー発生装置事件』
【註3】高村薫 「神の火」http://www.amazon.co.jp/神の火〈上〉(新潮文庫)[文庫]/dp/4101347123
【註4】http://ja.wikipedia.org/wiki/イラク原子炉爆撃事件
【註5】http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/gentai/irei_tuitou/houan.html
【註6】江端さんのひとりごと「神の火」http://www.kobore.net/godfire.txt