停滞党宣言

江端さんのひとりごと

「停滞党宣言」

(第2章 第1項)

1998/01/19

第2章 停滞主義に関する事前検討

 

 現在、世界には「自由主義体制」「共産主義体制」および「宗教的体制」による政治形態が運営されている。

 また、思想あるいは宗教的観念から言えば、数個の宗教を軸とし、さらに無数ともいわれる分派が存在し、その他あぶくのように現れては消える新興宗教や宗教を母体とする過激派まで、その思想あるいは宗教的の解釈は多岐に渡りっている。

 そのため、それらの母体に属する人々の行動は、その多岐に渡る解釈にともないさらに細分化される傾向にある。

 これらの主義主張が自己の正当性を掲げて、他の主義主張を平気で蹂躪することに何のためらいも無いことは、歴史を顧みるまでも無く明らかなことである。

 そういう現状の元、すべての行動について意味はなく我々の存在自体をもむ意味とすることで対処しようとする考え方や、あるいは民族の優秀性や自己の優秀性を掲げて自己の存在意義を見出そうとする考え方、支配体制がなくなればすべて良くなると考える考え方などがある。

 そして、これらの実験は人類の歴史の中で再現なく繰り返され、そしておおよそが失敗に終わっている。

 これらの結果が雄弁に語るものは、完全な主義と言うものは存在しないと言う事実であり、なんだかの主義主張はかならずその主義主張の超越したどこかで破綻すると言う現実である。

 どのような形であれ目的に向かって邁進する行為や、ある状態への遷移を望む行為は、必ずそれらの逆ベクトルとして存在する行為を生み出すことは、力学の作用・反作用に学ぶまでもなく、運命的な宿命であると言えよう。

 非常に簡単かつ安易な考察であり検証も十分でないことを認めつつも、上記の考察より得られる結論は、「理念を持った大衆的行動は必ず破綻する」と言う逆説的かつ悲観的結論である。

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 しかし、ここ200年の間、この「主義」の範疇を軽く超越し、単純にしてかつ明確、実証も容易でその効果は抜群と言う、恐るべき新興宗教的概念が発生してきた。

 それは、「明日は今日より良くなる。」と言う奇妙な概念である。

 この考え方の起源は明らかではないが、おそらく産業革命にまで溯ると思われる。

 また、キリスト教中世的停滞を打ち破ったルネッサンスに端を発すると言う意見もあるが「明日は今日よりよくなる。」などと言う夢物語のような話を受け入れれる母体は、まさにそういう文化の大転換期にしか存在し得なかったのは容易に想像がつく。

 さて、ここで我々は自問してみる。

 「明日は今日より良くなるか。」

 勿論我々の多くは、この段階で、この文脈には主語が不在であることは気がついているし、だからこそこの問いに対して用心深くなるであろう。

 しかし、この問いに対する我々の姿勢は、ネガティブ(否定的)ではなく、基本的にポジティブ(肯定的)である。

 なぜだろうか。

 それは、我々の祖父や祖母、父や母達の呪詛とも思える発言によって、我々は既に洗脳されているからである。

 「昔はねぇ〜、電気釜なんて無くて薪でご飯を炊いたものなのよ。今の人は楽ねぇ〜〜。」

 「昔はねぇ〜、お茶碗を洗うのにお湯なんて使うなんて贅沢なことはできなかったものよ〜。」

 に代表される、『昔はねぇ〜』で始まる一連の発言は、このほか、「社宅が狭かった」だの「仕事が厳しかった」だの「おむつは洗うものだった。」だのがある。

 父や母たちにとどまらない。この手の呪詛は、たかだた5,6年前生まれた程度の人間さえ「寮が狭かった」だの「汚かった」だの「一人一台パソコンが無かった」だのと、鬱陶しいことこの上も無い。

 現に私の母は、未だに全自動洗濯機と言うものの存在を許せずにいる節があり(洗濯機は2相式であるべき)、さらに電気乾燥機を購入しようとした私を、稚拙な技術論(殺菌効果が悪いだの衣服が傷つくなど)で阻止しようとしたほどである。

 家電製品の開発最前線にいるこの私に技術論で勝てる訳が無いことは分かっているはずなのに、である。

 要するに、常に未来に対して投げかけられる呪詛の多くは、我々に対して、「明日は今日より良くなる。」と言う奇妙な概念を、実に効果的に定着させることに成功しているのである。  一方、このような「未来への羨み」転じて「未来への呪詛、嫉み、嫉妬」に対し、その逆方向の動きも無い訳ではない。

 「過去への憧憬」、すなわち「昔は、よかったわねぇ〜。」である。

 「昔は、自然がいっぱいあってよかったわねぇ〜。」「昔は、この辺も静かでよかったわねぇ〜。」「昔は、農薬の心配なんかしなくてよかったわねぇ〜」などが、それに該当する。

 この項目に当たるものは、主に自然環境、住宅環境、土地問題、受験戦争、就職難などのように、時間の経過と共に常に悪い方向へ傾いていくものに対して向けられることが多い。

 そして、現在の劣悪な環境に対し、自分達がいかによい時代を過ごしたかを自慢げに語ると言う形で発現する。

 さらに、これらの「過去への憧憬」は前述した「未来への羨み」に対して、時として真っ向から対立する形としても現れる。

 「機械で書かれた宛名書きの年賀状なんて、欲しくないわ。」

 「自分がどこにいても会社から電話されるなんて、考えただけでもごめんだ。」

 特にひどい攻撃を受けた3大アイテムは、ワープロ、パソコン、携帯電話である。

 この3大アイテムに対しては、デジタル世代に立ち向かえない大人達は勿論、言論人、知識人と言われている多くの人間やほとんど狂気と言えるほどの攻撃が行われていた。

数年前には、日本で進歩的と言われた新聞(はっきり言えば、朝日新聞である)で、このようなデジタル文化やネットワーク文化をネガティブに位置づけるコラムを書いていた程である。

 

 さらにメディア文化に目を向けよう。

 この過去への憧憬を具現化するアニメ「ちびまるこちゃん」が日本中を席巻したことは記憶に新しい。

 あのアニメの舞台は、その作者が子供だった時期と同じ、昭和40年代(1970年あたり)を設定しているのであるが、それより溯り昭和一桁代、さらに大正生まれの人まで口を合わせて「私の子供の時代はあんな風だった。」と懐古している。 

 何時でも昔はよかったと言う考え方は、常に良い思い出しか記憶に残らず、仮に悪い思い出があったとしてもそれは確定した過去の事例に過ぎないからである。

 常に未来に向かって生きねばならぬ我々にとって、過ぎ去った過去とは恐るるに足りない、他岸の火事そのものなのであることを否定することはできない。

 「過去への憧憬」と言うものが、かなりいい加減な記憶や思い入れによって支えられている一面を示していると言えるが、この点の考察については割愛する。

 

 話を本論に戻そう。

 不思議なことに、過去を良いものとして懐かしみ、現在を欠点だらけの環境と決め付ける者たちのそのほとんどは決して過去を取り返そうなどとしない。

 例えば、電話の無い個人の自由を満喫した生活を送ることを、誰一人として邪魔するものはいないのに、誰一人として電話を手放そうとしない。

 洗濯物を洗濯板で洗おうが、米を炭火と鍋で炊こうが、あるいは緑豊かな廃村へ引っ越して貰っても、私に関して言えば全く構わないし、それに対して文句を述べるつもりもない。

 製造過程が死ぬほど大変であるが、無農薬食品を食すると言うことが健康と美容に極めて良いと言うことは言うまでもない。

 よかろう。

 確かに昔の生活が、現在の生活に比べ良かった面が多いことを、堂々と認めよう。

 そして、そのような言動や行動に対して非難などせず、基本的には静観し、可能な限り支援をしても良い。

 こういう姿勢に対して、異を唱える人間は少ないと考える。

 さらに、昔の生活に戻ること自体、さして難しいこととも思えず、それを妨げる要因もなどほとんど無いと断言して良いであろう。

 ところが、誰一人としてその素晴らしき過去に戻ろうとしないのである。

(本文章は、全文を掲載し、内容を一切変更せず、著者を明記する限りにおいて、自由に転載していただいて構いません。)