(Q3)『自殺を眺め続ける江端は、「不作為の罪」に問えるか?』を、法律論に限定することなく自由に論じて下さい
これまでに連載で論じられているように、電車への飛び込みは自殺開始から自殺完了までの時間が非常に短い。眺め続ける時間はごく短時間です。実際に観察対象が自殺する、と確信してから自殺が完了するまでの間に介入することは困難と思われます。

また、無理に介入する事は、自分の身が走行中の電車に接触するという危険をはらみます。自分の命を守る権利を考えれば、不作為とまでは言えないのではないでしょうか。

また、(3)の問いは、気持ち・動機を考慮せず実際の行動のみを考えれば「これまでに電車で自殺を果たした人を間近で目撃した人物」を不作為の罪に問えるか、とざっくりと言い換えることができる気がします。罪に問われたらたまりません。
問うべきではないと思います。特に鉄道における飛び込み自殺など、自殺の方法自体に危険性があるものを直接的に助けることは自分の身のためにならないですし、間接的に自殺数を減らそうとすることは、政治家ないしはそういう団体の人がやればいいのだと思います。 ただ、こういうコラムを読んで人にかかる迷惑を再認識して飛び込み自殺以外の手段を取ろうと思う(あわよくば自殺自体を控えようとする)自殺予備軍が増える可能性もあるので、ある意味自殺防止につながってるかもしれないとも感じます。(逆にこの世に絶望し、迷惑かけるために飛び込もうと思う人も増えるかもですが。)
まったく思いません。生き死にをコントロールする事に対する発想について、自殺だけでなく、安楽死、延命治療、不妊治療など、どれも似たり寄ったりに思えるので。
酔っぱらいに逆に絡まれる恐れがあった点と、数秒のできごとに体が反応しなかった点からセーフだと思います。

会社で隣にいる人が突然倒れても、瞬間には対応できないと聞いたことがあります。日々ホームでやばそうな人を助ける訓練をしているのでない限り難しいでしょう。自分なら駅員を呼ぶかも知れませんが、そこで目を離すという行為をどう問われるかわかりません。
眺め続けるという意味では、他の人間も大差ないと思います。原因に近い人間が少しでも気をつけたならという意味においてです。スプラッタな状態を見たくない私は私の利益のために止めるかもしれませんが、見る状態になければその場を速やかに立ち去ると思うので、私は問わないし問えないと思います。
問えない。十分自分の身が確保できる自信が100%あるのであれば、問えるかもしれない。しかい異常な状態にある人間のそばにいれば、自分の身も危険にさらされる。以前新大久保駅であったようなことが絶対に起こらないとは言えない限り、見ているだけでも罪には問えない。
自殺者が集うような場所にわざわざ出向き、通報もせずその一部始終を眺め続けているとしたら「仕事のストレスでしょうか、気の毒に」と思うでしょう。

そして江端さんが罪に問われても、私は擁護しません。

方法は何でもよく、自殺しようとしている〜自殺した、を偶然見かけた場合は「見ちゃったんですか?お気の毒に」となり、罪に問われないでしょう。
世論としては『自殺を眺め続ける江端は、「不作為の罪」に問われると思います。江端様は、対象者が線路内に落下することが想定できて自身の観察のために作為を行わなかったと記載されています。

ただし、
法律として人命救助が作為義務に該当するかと言われると該当しないと思われます(例えば歩きスマホで信号無視しそうな人間に注意をうながす義務はない)ので違法性は低いと思います。

自分個人としては罪には問えないと感じます。個々人の価値の境界は自分自身>他者である考えています(つまり等価ではない)ので、自分自身に危害が及ぶ可能性がある事象は自分自身の責にならないとなります。



以上よろしくお願いします。
問える.自殺をする人は,何らかのネガティブループに入り,堕ちていく状況にあるだろう.その人を見殺しにし,その人の未来をなくすことは,社会にとって損失になる可能性がある.人間が社会的動物である限りは,社会への損失を減らすために,その人が堕ちていかないようにポジティブに考えられるようにする義務があるのでは,と感じている.ちなみに,話は変わるが,人を殺した人は,その人の未来を無くしたのであるから,同じように殺した本人の未来も無くす,つまり殺人には死をもって罰することが適当であろう,と考えている.なぜならば,未来を作ることができるには,生きている人間だけだから.死んだ人はもうなにも創造できなければ,未来を変えることもできない.その権利を奪った人が自分はその権利を持ち続ける,というのは公平とは考えにくい.
駅員がそうすれば問えるでしょうが、一介の通りがかりの人にそれは無理でしょう。とういあ、眺めて研究する人がいてこそ社会は進歩すると思いますよ。
そもそも自殺は犯罪ではないので不作為の罪にはあたらないと思います。
 特に問題はない。自殺は起きてからでなければそれは自殺とはわからないので。おかしいと思っている人が止めればいいだろう。よって自殺だと知っていて留めなかったよねとほかの人が言ったとしてもではそれを止めなかったほかの人がだって同罪です。また注意して怒られたりしたので個人的にはもう勝手にやってろと思います。死んでも、落ちるとは思っていなかったしああいうギリギリな行動をする人は毎日見るだろうし、逆に落ちるかもしれないと思ってみな行動しているのであれば、自殺なんて起きないだろう。逆に誰しも落ちないだろうという前提のもと他人を見ているから特段誰が悪いかなんていえないだろう。自殺する人を見ていた。仮に自分だとしてもそれって自分の空想でしかないから、起きてから現実起きないのであれば空想になってしまう。しかし明らかに自殺する道具を持っているのであれば不作為となるかとは思いますが。首にロープを付けていたりする程度の位の人しか思い浮かびません、それでもそういう人を見て自殺はしないとは思いますね。自殺はその場の勢いが重要ですから、迷うぐらいならばまだ大丈夫。話が変わりすぎので戻すとすると。

 この人が犯罪をすると思ったから未然に防ぎましたが通用するのであれば不作為だと思いますよ。
見てた人に、そんな罪に問えないと思います。

なんなら、助けにいって、間違って助けようとした人だけが死んだときに、その自殺志願者に殺人罪を問えるかというと無理があるような気がするからです。(海の事故とかでありがちなやつです。)助ける努力はしたほうが良いとは思いますが、それは自分に助けるスキルが確実にあると認識できた場合のみだと思っています。それ以外は、もしそういう人がいた場合の邪魔になるだけだと思います(海の事故とかにありがちな・・・)

文章下手なんで、雑なアンケート結果になってしまい、申し訳ありません。

よろしくお願いします。
統計やデータに基づいた考察や提言がなぜ罪悪にならなければならないかのほうが不思議でならない。

何事においてもデータがないという事こそが不作為の罪である。

都合が悪くなるとデータを取っていないという原子力関係機関の方がよほど罪に問われてしかるべき。

人間の死に方について自殺の直前の聞き取り調査が出来れば一番良いが(なぜ死にたいのか、他の方法はなぜダメなのかなど)自殺を見る事は故に尊厳死を見通す事にもつながるので罪どころか賞賛されるべきである。
普通に聞いたら止めるという人が一番多いと思いますが、実際その場に立ち会ったら眺めることがしかできないというのが実情じゃないでしょうか。
尊敬する江端の意見が正しいです。罪になど問えるはずがありません。これからも亜移動させて頂きます。頑張ってください!
自殺をする人が、当人と社会的な接点のない人という条件下においては、罪には問えないと考えます。

自分のキライな上司が、、、という話になると、これは罪に問われかねないので、私ならその兆候を察した時点で代替の路線の探索のためにホームを立ち去ります。
未必の故意を問われる可能性はありますが、自ら名乗り出ない限り難しいでしょうね

瞬間的に相手の体を抑えられる距離(2mくらい?)に居なければ、誰にも何も言われることは無いと思います。ベンチに座ってホームを眺めて一日過ごすのは有りかもしれません。※駅関係者に不審人物と疑われる可能性は非常に高いですが
建前として自殺は悪なので公に推奨されることないですが,一方で自殺者にとって自殺が悪いことなのかは,死後の世界が分からない以上何ともいえないので,自殺を止めないことが罪であると認められることもないと思います.
何も飛び込みにかぎらず、自殺を止めようとしたがために、自分が巻き添えを食らうというのは良くある話なので、止められないとしてもやむを得ないと思います。

特に、論中にある思考停止状態の人の出す力というのはいわゆる火事場の馬鹿力状態なので、普通の人だと対応できなない可能性が否定できません。

特に、飛び込みの場合は瞬時の判断が必要になりますが、そんなもの訓練を積んだ人でもないととっさに体なんて動きはしません。

余談ですが、私はスクーバダイビングのマスタースクーバの資格を取りました。

訓練の過程で、実際に水中でパニックになった人を見かけたんですが、ものすごい力で、水面をめがけていくので、止めるのにこっちも死ぬ思いをしています。

#スクーバダイビングで、死に物狂いで水面を目指すのはわかりやすいところでは肺が破裂するなどで死のリスクが冗談ではなくあるんです。

そうなることが容易に想像できるので、自分の命を巻き込むわけには行かないので、不作為の罪に問う事自体がナンセンスだと思います。
法律論はよくわからないのでそれについては論じることはできませんが、明らかに自殺する気プンプンの人に声をかけられるかというと、個人的にはすごく難しいし、怖いことだと思うので、たぶんそういう人を見つけたら声をかけずにその場から逃げるだろうと思います。けれど自殺というのは爪を切ったり、お化粧をしたりといったプライベートな行為の一つだと思うので、その様子をじっと見てるのは失礼にはあたる気がします。見ず知らずのこれから全力で死のうと思っている人にいきなり死んじゃダメだというのも無責任な気がします。ただ次の電車で絶対に打ち合わせ先に行かなければならない時に、目の前にこれから死のうとしている人がいて、死ぬとわかっているのに声をかけないで、実際その人が自殺してしまい、打ち合わせにも遅れてしまった、ということになったら、仕事ができない人間だ、ということになる気がするので、そういう時はきちんと声をかけて、次の電車に飛び込んでくれくらいは言うべきだと思います。野菜の好き嫌いではないので、罪に問えないならオーケー、罪に問えるならアウトの二元論ではなく、心構え的に臨機応変に1つ1つのケースに対応するべきかと思います。
自殺を止める作為義務が存在するわけではない(?)ので、人倫に反するかどうかというだけが論点ではないでしょうか?

ただ、飛び込みに行き合わせてしまった、と考えるとちょっと異なります。



 可逆か不可逆かを考えた場合、残念ですが死んだ人を生き返らせる事は出来ないと考えるべきです。つまり、死は取り返しが付かない。であれば、咄嗟の行為であれば、死を選ぼうという人を物理的に止める事が正しい。止めなかった場合、選択が間違いだった場合にそれをやり直す機会が失われるからです。



 その人が生きている事で何らかの影響が現世に及ぶ可能性があります。それが大量殺戮の可能性もありますが、自殺を止めなかった場合、その機会すら失われてしまいます。日々の仕事が些細な機会を捉えて形にすることと総括するのであれば、雨が降って桶屋が儲かるサイクルの一つを絶ってしまうことは避けたい。選択肢が減る事は進化の道が閉ざされることに繋がります。



 「咄嗟」の行為であればそんな事は知るよしもない。やっばり止めなけりゃ良かったようなやつなら、迷惑を掛けない他の始末を考えればいいでしょう。私が勤務する市ヶ谷にはお堀があります。



 ふつう、自殺に至りそうな現場に居合わせてしまうとき、本人を良く知っている事はないはずです。とすると、咄嗟の行為として考えていいかなと括ってしまいました。



 

自殺の権利に賛成で痛みもなく、誰にも迷惑をかけない方法があれば個人的にも率先してやりたい位である。個人の命は個人の勝手であるので、積極的に止めないのを咎められるのがおかしい。 ロッキー
まあ、しょうがないんじゃないでしょうかね。

自殺を止めたら、結構責任重いと思います。

私なら、気分で決めます。

罪に問えるか、は、問えるでしょうけど、罰としては「嫌な気分になる」くらいが適当と思います。

私は、人に親切にしようと思って暮らしていますが、もしその結果自殺されたり、自殺を思いとどまったりする可能性があるな、と覚悟しています。超要約すると、嫌なら死ねば、と思ってます。
仮に罪として起訴した場合、弁護は容易であると思われます。ですが、ether-CAT網を使って監視システムや自殺防止システムを提供した場合、システムの不調から責任を問われる可能性はありそうです。 これはAIによる自動運転の事故にも繋がる課題で、これからの議論が必要と思われます。
あくまでも個人的な考えですが、他人のする行動を先読みするのは困難なため、不作為の罪には問えないと思います。



次に、あえて法律論で検討してみると、不作為の罪においては社会的行為論(この場合は「鉄道を使った飛び込み自殺」を止めれるかどうかになりますが)を前提とする保証人説に基づいて可罰性を肯定する立場が有力でありまして、「電車に飛び込む可能性がある人の行為を止める義務が存在すること」と「電車に飛び込む可能性のある人の行為を止めることが出来ること」が取り上げられます。つまり「未来を予見できなければ義務も存在し得ない」という理論になります。

また法は人に不可能を強いるものではないため、その作為を行うことが出来ることがなければ、それに対する義務も発生しないため、
現状の法律に則って考えると、不作為の罪には問えないと思います。
法律は専門分野では無いため、法律的根拠を伴わないコメントをさせて頂きます。

また、人道的観点からのコメントは、既に多くの方からお聞きと思いますので、省略させて頂きます。



駅のホームにて、線路近くまで自殺をしそうな人が移動している段階で、飛び込みを抑止する場合、物理的接触を伴う方法は、巻き添えとなる可能性があるため、良い手段とは思えません。

また、接触を伴わない声掛けによる抑止行動も、自殺しそうな人に、何と声を掛けて良いか、現場でとっさに判断出来ず、声を掛けられない人もいると思います。

よって、自殺の過程を何もせず傍観しているからと言って、止めに入る自身の安全を確保しつつ、自殺を止められる人は、実際少数だと考えます。

江端さんが、他の救護者の行動を止めず、他の救護者が現れ難い状況を創り出す行動を実施していなければ、不作為の罪には当たらないと、私は考えます。
 自殺の場合、どの時点で飛び込むのか見ていてもわからないんでしょうね。結果として眺め続けていたようになるのでは?実際にはホーム上を行ったり来たり、飛び込むぞ止めた音頭を踊る訳でもなさそうですし(こんな場合は結局飛び込まないです多分)。ヤバいと思った時点で止めに入ると自分が巻き込まれる可能性の方が大きいかと。
鉄道で自殺する人は人に迷惑をかけて死んでいくことを自覚していますから、自殺する自分に注目してほしいと思っている部分があると思います。自殺者が一番嫌なのは人身事故1件としてカウントされて、終わってしまうことではないでしょうか。江端さんのように自殺を眺め、いろいろ考察する人が増えることは自殺してしまった人たちにも、自殺が他人ごとでない日々を送っている我々にも有益なことではないかと思います。
 
あなた一人傍観を止めて自殺者を助けるなんて、ほとんど無駄な行為。 一部の人を除いて、自殺したいと考えてさせてしまう、社会的な問題が大きいと思う。
人間社会も一種の生態系であるなら、問えないと考えます。 生命の生存に関わる点で言えば、野生動物における捕食場面の生態系観察に状況は近く感じます。観察者は被捕食者を助ける立場でもなく、捕食行為を防ぐ立場でもなく、むしろ干渉してはいけない立場です。 今回の件では、江端さんは観察者に過ぎず不作為の罪が生じる立場ではないと考えます。(正義感・倫理観に従って、介入することを否定しているわけではありません。)