「子供たちを責めないで」

江端さんのひとりごと

「子供たちを責めないで」

2002/09/28

 

今年の夏のある日、仕事で奈良へ出張した時のことです。

新横浜から乗り込んだ私は、指定券に記載されていた自分の席に、毛布に包まれた乳児が横たわっているのを見つけました。

隣の席のお母さんは、慌てて自分の子供を自分の片手に抱き寄せて、軽く『すみません』と言うように頭を下げました。

それを見て、私は気が重くなっていました。

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私なんぞ、嫁さんの単なるアシスタントに過ぎず、本当の育児の100分の1も携わっていない身の上であるという確固とした自信がありますが、それでも、夜中に叩きおこされ、数キロの物体を抱きかかえ、(赤ん坊の夜泣きにつきあった人なら分かるでしょうが)椅子に座ることすら許されず、呆然と部屋の中を歩き続けた夜は、本当に形容できないほど辛かったです。

泣きわめく娘を抱きかかえながら、こみ上げてくる吐き気と、疲労からくる持病のじんましんと、それに併発して発生する喘息の初期症状で、

このまま、私は死んでしまうんではないだろうか

と思うくらい、辛くしんどい思いをしたものです。

私は断言しますが、世界で最も辛い仕事は誰がなんと言おうが、絶対にそれは「育児」です。

   上司の辛辣な叱咤に胃を痛めようと、見通しのたたないプロジェクトに途方にくれようとも、自分の望んだ時間にコーヒー飲めるし、煙草も吸える。

   憂さ晴らしに酒を飲める身分で、何が「仕事が辛い」だ、馬鹿者。

   甘えるんじゃない。

   夜、寝られるだけでも感謝しろ。

と、私は言いたい。

育児を担当する親は(日本では、圧倒的数が女性だが)、生後半年は文字通り不眠不休、本当に寝れません。

授乳に30分、ゲップをさせて眠らせるのに30分、ようやく寝たかと思ったら1時間も経過しない内に泣きわめきながら起きる。おむつを取りかえる。授乳をする。ゲップをさせる。寝る。1時間後に起きる。

昼夜関係なく、何箇月もこのサイクルが続くのであり、これこそを輪廻の地獄と言わずに、何と言いましょう。

育児に携った経験のない人は、24時間だけで良いから、1時間だけ寝て、1時間だけ起きる、という体験をしてみると良いでしょう。

起きている間も、布団の上でボーとしているようなことではダメです。

昼であろうが、深夜であろうが、必ず屋外に出て、ボリュームを最大限にしたハードロックが流れるカセットテープレコーダと、常温で一週間程放置した生ゴミと、水の入ったペットボトル5本程度入ったバックを抱えて、訳もなく歩き回って頂くことが必須条件です。

一般的に子供は病弱で、高熱を出し、夜中に吐き、苦しそうに力なく泣き顔を見る親の立場は、本当に身を切られるように辛いものです。

子供を抱えて、灼熱の太陽の中、吹きすさぶ吹雪の中、月に何度も病院に行く体力はそれほど続くものではありません。

病床の子供は、体力が減退し、食欲がなくなり、水も飲まなくなります。

「お願いだから、たった一口でいいから、ミルクを飲んで」と、それが可能なら、親は床に頭を擦りつけてでも祈るものです。

これで、伴侶が「仕事で疲れているんだ!子供を泣かせるな!!」と言おうものなら、世界中の誰が許さなくとも、この江端だけは許します。

そんな奴、刺しておしまいなさい。

そいつは、「伴侶」としては勿論、「人間」の資格すらありませんから、構いません。殺っておしまいなさい。

こんな阿呆な伴侶と一緒に過して、ノイローゼにならない人間がいたら、見せて欲しいものです。

このような地獄から逃げ出したくなって、自殺したくなったら、--- やはり思い留まることをお勧めしますが --- 、もし、どうしても耐えられないのであっても、簡単に死んでは行けません。

そいつの社会的生命を、完全に抹殺する材料を残してからにしましょう。

それと、ルールとして、子供は決して道づれにしないこと。

子供には罪がないから当然として、その阿呆たれ「伴侶」に、育児の残酷さをきっちりと理解して貰い、落し前をつけて貰わなければならないでしょう。

閑話休題。

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自分の席に幼児が眠っているのを見た時、私は席の前を素通りしてしまうべきでした。

京都駅までは、高々2時間程度。

立っていても良いし、連結部で胡座をかいていても良かったのです。

それだけのことで、そのお母さんはどれだけ助かることかしれません。

しかし、素通りの機会を逃してしまった私は、仕方なく席につきました。

幼児を右手に抱え、さらに私の座席の足元に倒してあったベビーカートをそれを通路側の方に出しつつ左手に持ち、両手が完全に塞がった状態になっています。

私は、お母さんに「ベビーカートを私の足元に倒しておいて構いませんよ」と言ったのですが、お母さんは会釈だけして、左手のベビーカートを手放そうとはしませんでした。

幼児が座席の手摺りを越えて、私の腕を触ろうとするのを、お母さんは、体を捻って、それを止めさせようとします。

私は、『全然、気にしていませんよ』というゼスチャーも込めて、幼児に小さく手を振って愛想よくして見せたりもしたのですが、お母さんの方は、子供をしっかりと抱えて、なんとしても粗相のないようにと、随分神経質になっているようでした。

両手がふさがっている状態で、手首と手の平だけを使って、リュックのポケットに指を伸ばし、子供の為にウエットハンドタオルをもどかしく取り出そうとする姿に、私は目頭が熱くなってきました。

『ちょっと、子供を抱いていて下さい』

とは言えないのだろうなと思いながら、 ふと、回りを見わたすと、平日の午前9時の東京発の新幹線の中は、スーツ姿のサラリーマンからなる灰色の風景。

確かに、ベビーカートと子供を抱える母親は、場にそぐわない感じが否めませんでした。

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お母さんが緊張しているのには、私にも原因があったと思います。

その頃、私は工場から突きつけられた障害対応対策の作業を行っており、出張中もノートパソコンを新幹線に持ち込んで、Linuxカーネルデバックをやっておりました(後程、この作業を「新幹線デバック」と命名)。

私のコーディングは、私のチームのメンバによれば、「機関銃のような激しいタイピング」とも「怒りを噴出させているかのようなキータッチ」とも、嫁さんに言わせれば、何人たりとも半径5メートル以内に近づけさせない「殺気を込めたキーイング」とも言われております。

本人は、そんなつもりは全くないのですが。

私が、どんなにクールなマスクのケビンコスナーであったとしても、会社の人間ですら「びびる」と言われている私のキーボードの操作を、隣の席で行なわれた日にゃ、確かに怖かったでしょう。

しかも敵は、ただのプログラムではなくカーネルです。

私の形相は、般若のように凄まじかったという可能性も否定できません。

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ところで、私は、かつて子供が嫌いでした。

どの位嫌いだったかと言うと、伊武雅刀氏のあの名曲「子供達を責めないで」を、バイト先の学習塾にカセットテープレコーダを持ちこみ、歌詞カードを生徒達に配っていたくらいですから。    

   <子供たちを責めないで>

   私は子供が嫌いです

   子供は幼稚で、礼儀知らずで、気分屋で

   前向きな姿勢と、無いものねだり

   心変わりと、出来心で生きている 

   甘やかすとつけあがり、放ったらかすと悪のりする

   『オジンだ』『入れ歯だ』『カツラだ』と、

   ハッキリ口に出して人をはやし立てる無神経さ

   (中略)

   努力の素振りも見せない

   忍耐のかけらもない

   人生の深みも、渋みも、何にも持ってない

   そのくせ、下から見上げるようなあの態度

   火事の時は足でまとい、離婚の時は悩みの種

   いつも一家の問題児

   そんなお荷物みたいな、そんな宅急便みたいな

   そんな子供たちが、私は嫌いだ

   (中略)

   私は思うのです。

   この世の中から、子供が1人もいなくなってくれたらと

   大人だけの世の中なら、どんなに良いことでしょう

   私は、子供に生まれないで良かったと、胸をなで下ろしています!

   (以下省略)    

いや、本当に全部歌詞を書けないのが、本当に本当に残念です。

私は学生の頃でしたが、共感のあまり、感涙の涙を押え切れませんでした。

騒がしい子供にも、我慢できませんでした。

阪急電車の中で騒ぎまくっていたガキを、本を読んでいるふりをしながら後向きで蹴り倒すという、ささやかで微笑ましいイラズラをしてしまうほど、子供が嫌いだったものです。

子供を泣かせたままにしている親を、睨めつけたこともありました。

親が、子供を静かにさせるという努力をサボタージュしていると信じていたからです。

今となっては、タイムマシンに乗って、若い頃の自分を力の限り殴り倒して、その親の前で土下座させてやりたい位です。

今となってはもう遅いですが、本当に申し訳ありませんでした、としか言いようがありません。

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娘の誕生とその育児のプロセスで、私が、革命的といって良いほどのパラダイムシフトを起こしたことは、御存知の通りです。

今の私は、100人の赤ん坊が泣き叫ぶ保育所の中で、熟睡する自信がありますし、街中をとことこ歩いている子供なんぞを見ると、その可愛いらしさに思わず抱き上げてしまいそうになります。

実際にすると、警察に通報されるかもしれないので、やりませんが。

とは言え、私が寛容を発揮する子供の適応年齢は、常に娘より下の子供に限ります。

御存知の通り、私は娘を通した体験した事例でしか、寛容性を発揮できない極めて狭量な人間なのです。

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私は、私が、非常に子供好きで、子供の所業に大変寛容であることを、そのお母さんに判って貰い、緊張することなく、新幹線の旅を親子で楽しんで貰いたかったのですが、それはかないませんでした。

私に出来たことはと言えば、名古屋駅を出たところで席を立ち、京都駅まで新幹線の連結部で、仕事のレポートを読んでいることぐらいでした。

まあ、これはこれで、少しでもお役に立てたと思うのですが、もう少し積極的に何かができないものかとも思いました。

「私は、子供に寛容です」「安心して下さい」を明示できるものは無いだろうかと考えながら京都駅の中を歩いていた時に、ふと「嫌煙バッチ」のことを思い出しました。

子供の所作に寛容です → Hospitable to Children → 「CTバッチ」

なるものを作るのはどうだろうか、と考えたところで、この発想は逆の方が良いことに気がつきました。

ずばり、「嫌子バッチ」。

「私は子供が嫌いです」としっかりと明示して貰う。

このバッチを付けている人の印象は最悪となります。

独身の男性なら、女性とのお付合は絶望。

社会的信用も底値となるでしょう。

出世なんぞ論外。

欧米での生活は、危険かもしれません。

ですから、このバッチが存在することが知れ渡っても、誰もこのバッチを付けません。

ところが、このバッチをつけていない以上、育児に非協力であることは認められません。

子供の前で喫煙する行為は、現行犯で逮捕され、刑法の対象となります。

子供の鳴き声に舌を打つ奴は、石を投げられます。

育児中を認定された人は、満席の飛行機、新幹線、その他の公共交通機関において、座席の割り込み権利が発生し、先に座席予約していた人を席から立たせることを是認したものとして扱われます。

そして、満員電車で、妊婦に席を譲らないことは、反社会的行為と認定されます。

肥満気味の女性が、妊娠初期と間違われ非常に不快な思いをしなければならないこともあるかもしれませんが、日本社会全体の社会通念の変換の為、諦めて貰うしかありません。

ニッコリ笑って、心で泣いて、席を譲って貰いましょう。

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日本という国は、社会的に弱者である、老人や子供、障害を持つ人、妊婦に優しい国とは言えません。

以前から私が主張しているように、これは、この国の国民の特性ではなく、この国が、社会的弱者を守れる程のキャパシティがないからだと信じています。

自己を守ることで精一杯のこの国にあって、どうやって、社会的弱者を守ることに価値を見い出せる国に変っていくかは、大変難しい問題ですが、これらの取り組みが、まったくない訳ではありません。

私は、最近、新しい金融システムからこれらの価値観を構築しようとする活動を知り、ほんの少しだけ関わらせて貰っています。

私は自分のキャパシティを放棄してまで、このような社会を作ることには興味がありませんが、自分の子供の為になら、いくばくか踏んばることならできるような気がします。

子供を、全ての大人で守っていくことができる社会というのは、誰もが生まれてきてよかったと思えるような社会の一つであると、私は信じます。

もし、このような社会が残せたら、あるいは、そこまで至らなくとも、その一端に関わったと言えるのであれば、私はそれだけで、良い人生を生きたのだと後世に自慢できると思うのです。

(本文章は、全文を掲載し内容を一切変更せず著者を明記する限りにおいて、転載して頂いて構いません。)